闘戦記の「ムズかしさ」の正体とは

全国1億2000万の聖守護者のみんな、ごきげんよう。もしそうだったらこの国はもう誰が誰を何から守ってるのかもわからんね。

実装からはや1か月ほど。攻略が進み、遊びの幅も広がったりして、闘戦記はよりいっそう楽しい局面を迎えているようにみえる。
 …え! もう1か月!?

ところで僕、というか僕ら夫婦なんかだと、まだまだ腕前が足りないので定番のパーティ構成で勝つのが手一杯という状態だ。

そんな中思うのは、
「やはり闘戦記って『非常に難しい』のではないか?」
というコト。

しかもその「難しさ」は常闇のソレとはちょっと違う気がする。前にもどこかでちょいと書いたが「DQ10のこれまでになかった難しさ」を感じるのだ。これ共感してもらえるだろうか?

そこで今日は読み物として「闘戦記のムズかしさの正体」について、ちょっくら考えてみたい。


…ところで全然関係ないけれど、今日からこのブログの住所が変わりました。

読んでくれる人がとても増えたためなのか、全て無料で借りていた以前の環境ではムリが出ていて、急遽手をうった次第。アップ前の記事が何本か吹き飛んだりしたからね。

旧住所に行ってもコチラにルーラするので、何も気にしなくて大丈夫。中身も以前となーにも変わらない。ただ、維持にコストがかかるようになったため、いずれは広告を入れることになる可能性が高い。そうなると少し読みづらくなると思うけど、勘弁していただきたい。
 

100%の「正解」と「不正解」

 闘戦記を考える前提として、常闇のことを振り返ってみよう。

 レグに棒切れ2本で挑みかかっていくようなド変態な挑戦(100%ほめ言葉)をひとまず除けば、常闇で「想定される戦い」はかなり台本的だ。

 相撲で敵を阻害することで被害を最小限におさえ、安全を確保しつつ攻撃する。非常にざっくばらんに言うとコレが全常闇の基本だ。

 ただ、戦いをルーチンワークに留めないために、各常闇はいろいろなギミックを用いてくる。竜の咆哮しかり、ダーククリスタルしかり、ゲノムデビルしかり。だから一筋縄ではいかないのだ。

 それでも「軸となる戦術」が明確であるため、そのつど「100%の正解」と「100%の不正解」が存在している場面は多い。
 失敗を減らし、正解の行動で上書きしていくことが、常闇において「うまくなる」コトの中心を形成していたと思う。
 

「正解」と「不正解」の境界とは

 それに対して、闘戦記はどうだろう。

 もちろん闘戦記にも100%の正解と不正解はある。たとえばウィスパーや狂い裂きを必要外でくらうのはどう考えても不正解である。
 

 ただ、こういう例の場合はどうか。

 立ち止まったローガスト付近ですでに2人が倒れているとしよう。僧侶ははやく蘇生にいきたいが、次のローガストの攻撃が狂い裂きだった場合、蘇生はできても自分が死ぬ。

 蘇生を一瞬待って範囲攻撃を誘導・回避すれば、ローガストにやられる心配はない。しかし、その一瞬の待ちの間には、レギルラッゾが自分を叩き潰しに来る可能性がある。なにせすでにマトは2人だ。
 その場合、僧侶は誰も蘇生できずに死ぬおそれがある。とすれば、ローガストの次行動のコトは度外視して最速で蘇生に行くことで、最悪自分は死んでも一人を蘇生できる。
 ところで、レギルは来ないかもしれないね。つまり死なずに蘇生できる可能性も残っているのだ。


 いろんな可能性を省いて極度に単純化した例ではあるが、このケースの場合なら、いちおう「レギルのリスクは無視して一瞬待つ」コトを僕なら選ぶ気がする。

 レギルが本当に助走をつけて殴りにくる確率、そして来たとしてもガードやみかわしやロザリオの発動する確率まで考え合わせれば、このリスクは比較的小さい。範囲攻撃の被弾という大きなリスクを踏む必要はなさそう、という理屈である。

 しかしどうだろう。僕の思う正解は他の人が思う正解とは違うかもしれない
 「もしレギルが来て3人が死んだ状態になったら、かりに立ち直れたとしても時間がかかる。そうなると勝利が遠のくから、最速で蘇生に行くべきだ」

 …という具合に、闘戦記には「100%の正解というものが見えない、あるいは無い」という場面が非常にしばしばある、と僕は思っている。

 盾・みかわし・カカロン・聖女・ロザリオ・敵の次の行動は・誰が生きてて死んでるのは誰か・いま誰が無敵か…

 乱戦においてはあまりにたくさんの要素が絡み合っていて、自分の行動の「期待値」を計るのがとても難しい。そして、何が正解だったかは「結果論」でしか語れなくなりがちだ。

 モチロンこういう場面は常闇にだってある。ただ、闘戦記におけるその頻度は別格だ。主因は、不確定であるところの敵の行動が多すぎるからである。
 

正解が見えないツラさ

 というワケで、僕はこれこそが「闘戦記のムズかしさ」だと思う。
 次の行動は何が正解か、それがハッキリ見えなくなるというツラさである。

 そしてそれは「自分の戦い方をどう修正すればいいのかわからない」という上達のムズかしさにも繋がっていく。
 うっかりすると、リスク判断としてわりと正しかったハズの行動も「その時は結果的に奏功しなかった」という一点によって不要な反省にさらされてしまうかもしれない。

 私事になるけれど、妻のアンいりが本職であるハズの僧侶を今回僕に任せた理由はだいたいコレだ。何が正解かわからず上達を感じにくかったため、自分が僧侶をやり続けない方がいいと思ってしまったそうだ。「しっかり理で考えようとしている」からこその懊悩かもしれん。

 曰く、天地は僧侶ほど複雑ではないと感じたそうだが、かりんとは天地をしていないのでコレはわからない。


 とにかく、身近な人ひとりの心を折ったという実績が闘戦記にはあったので、今日のようなコトを考えてみたくなった次第だ。ムズかしいんじゃ、闘戦記は。うん。

 本来、「ならばどう戦い、どう上達すればいいのか」まで書かなければこのお話は終われないのだが、続きはまた今度にしよう。
 ごく簡単に言うとすればそれは「60%の正解よりも80%の正解を」追い求める姿勢と「無回答に逃げない(行動を過度に恐れない)」コトなんじゃないかと、ワシは思うよ。